考え中

まったく公共性のない備忘録

new born 荒井良二展

刈谷市美術館で「new born 荒井良二:いつも しらないところへ たびするきぶんだった」が始まっている。刈谷市美術館は良質な絵本作品や関連展示を特徴とする良い美術館だが、それほど何度も行っていない。絵本を嫌いと思ったことはないが、どこか信用できないというか、たぶんおおかたの絵本に馴染めない人間なんだと思う。

 

この展覧会に対しても、会場で最初の作品を見るまでは、それほど心を開いてはいなかった。

最初は『あさになったので まどをあけますよ』という絵本の表紙である。表紙に続いて一連のページに描かれていた原画が続く。窓を開ける子どもたちが次々に描かれ、その視界に映る景色がそれぞれ挟まれている。窓の外で犬が笑っている。日常的なのに衝撃的な風景である。子供の絵本に対する不信感はいっさい感じない。

景色のどこかに窓を開ける子供がいるし、それ以外の人や動物もいる。絵の中にたくさん楽しみが仕掛けられていて全部は堪能できないほどである。小賢しい仕掛けではなく、世界観の鍵となるモチーフや遊び心である。展示会場内のあちこちで、そういったモチーフや企みに気づいて「あは~」と明るい驚きと納得の声が聞こえる。

 

もやっとした輪郭のないプリミティブな画風、原色が溶け合うような色選び、ゆらゆらとあいまいな筆致なのに、見事なデッサン力と色彩感覚で写実的とも感じられ、描かれている人も景色も架空なのに確かな存在感がある。

架空ながら親しみ深いのは、昭和の時代の暮らしや、ラテンの国々、東欧の山岳地帯、こけし、楽器、スカーフ、お祭りの屋台などが基盤となった架空の民族の文化がイメージとして体系的に創造されていて、”しらないところ”だけれど、懐かしいところへ”たびするきぶん”になるからだろうか。

昔、美術館で見た絵や、昔の絵本に出てくる絵が遠い外国の風景のようでもあった。立体作品も充実している。美術館敷地内の茶室・佐喜知庵にも展示がある。掛け軸やふすまの絵、和菓子のデザインもしたのか。

 

じっくり見ないとみつけられないものが描き込まれているので、手にとってじっくり眺めたいと思ったけれど、印刷された図録や絵本では何かが失われていた。持ち帰ることのできない、遠い、けれど必ず今もそこにある国のことだと思って何も持ち帰らずに帰ってきた。