考え中

まったく公共性のない備忘録

マティス展

今年3回目の東京都美術館である。

マティス展が始まっている。今回は、初期から晩年まで充実した展示が見られるというので、「混んでる」という懸念を抑えて果敢に行ってみた。

 

途中、上野駅で「みはし」のあんみつを食べる。上野は広いが、何処へ行っても人がたくさんいて、それも世界中の老若男女だ。リトルワールドだ。小宇宙だ。

もちろん、みはしも混んでいた。

 

 

あんみつを食べて、その甘さとやわらかさに癒やされたあと、戦う気持ちで上野公園に入った。大好きな上野公園だが、これだけ人が多いと「なんでこんなところへ来ちゃったのだろうか」と気落ちしそうである。お腹のなかにあんみつを感じながら、歩く。

 

ついに、見えてきた美術館は、並んでいる人はいないようだ。エゴン・シーレのときには並んだので、恐れていたのだ。

 

列こそ出来ていないが、管内に吸い込まれていく人数は多い。雨ではなく日傘をさしている。30度超えの真昼である。

 

ロッカーに荷物を全部入れて、オンラインチケットを見せるスマホだけで入場した。Wi-Fiが弱くてチケット表示ができない。仕方がないので昨夜キャプチャしておいた画像で入場する(それでもいいのだそうだ)。

アーティゾン美術館の至れり尽くせりが懐かしい。

 

マティス展は、セザンヌ風の自画像から始まった。いい作品だ。なんていったて、色がいい。

そこから修行の若い時代の作品が続く。筆触分割法や、キュビズムや、いろんな試みを見ていく。娘の顔がキュビズムになってしまった作品は、塗り重ねられた下の層に写実的な唇や目が見えている。

そしてフォービズム辺りまで進むと、見慣れたマティスになってくる。

 

ちゃんと輪郭があり、線に独特の丸みがある。ベタ塗りで遠近に無頓着かと思えば、ちゃんと家具の位置関係なんかは平面でも分かるような配色である。

人の顔は描き込まれていない。目鼻がまったくないこともある。

 

彫像なんかもけっこうあった。両腕をいっぱいに上げ、腰から足まで「もう無理」というところまでねじり「人体」のあり方を試している。それは絵にも現れている。

 

今回、「夢」という、うたた寝女性(マティスの秘書)の絵が後半の人気作品になっている。珍しく赤は使わず、部屋の背景もない。人と青の敷布で静寂や平和を表現している。女性の、まどろみのもたらす安らぎは、画中の背景の部屋を超えて広く、広がっている。

 

最後は、切り絵の時代の作品と、ヴァンスの教会の写真や動画の展示である。切り絵はフォーブというよりプリミティブな造形で、切り抜いた外側も利用していることがある。切り絵ではなく”貼り付け絵”のこともある。つまり、ちゃんと形を切りぬくというより、断片を張り合わせているような作り方もあるからだ。

ヴァンスの教会にも似たような造形が見える。

 

ヴァンスの教会の入り口上の聖母子は、太い青線を施した円形の中に聖母とキリストが描かれている。丸い聖母子というとラファエロのようなルネサンスでも流行った。意識しているかどうかは分からない。

聖母子は線画といってもよい。単純な造形の中にも普遍的な安らぎがあって、よくこんな形にたどり着いたものだ、と感心することしきりだった。動画のなかで、円の縁取りの青と、空の青が呼応しているのを見たら、晴れ晴れしい気持ちになった。

 

今回は、パリのポンピドー・センターが改装工事で、その間マティスを貸してくれることになったそうだ。

 

マティス展は入場時間を制限して、時間ごとに「売り切れ」を表示している。そのお陰で、けっこうゆっくり鑑賞できた。最近、撮影可能になっている作品もあって、混んでいるときに撮影している人の前に行くのは憚られるっていうのがナンである(何である、難でもある)。SNS用なのかもしれないけれど、これ以上集客してどうする?

 

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ショップ

図録は3冊に分冊されている様子だったので、素通りした。

切り絵時代の作品はグッズとしての相性がいいので、文具やバッグ、Tシャツなどいろいろある。ブロンズ像を模したカリン糖は新鮮だった。

ショップの奥の方で、素描のアイリスのTシャツを見つけた。切り絵じゃないマティスはめずらしい。

 

ということで、それを買うことにした。

レジで、「あれアップルペイ使えないの?」となった、交通系ペイは使えるという。

「財布がロッカーにありまして」というと、「そういう場合にかぎって一回退場して入場できる」と言う返答があった。それは面倒なので、その場でSuicaにチャージして払うことにした。なんとか支払えた。