愛知県美術館で開催中のミロ展に行った。
連休中に足が向かず、今日は仕事が早めに終わったので遅い昼ごはんを食べてから入館した。
すると、平日午後ということもあって、予想以上に空いていた。ミロはピカソに並ぶ巨匠だとか言われるが、ピカソが来たらこんなに空いている状態で見ることはできないだろうよ。
今回はミロが日本贔屓であったことを取り入れた展示だった。ミロが所有していた日本絵画などの作品、タワシなど日本製品などの展示もあった。こういうのは中の人の努力が忍ばれる。
ミロ展は何度も日本に来ているので過去の日記を検索したら、2002年に2回も展覧会があった。岡崎と、愛知県立美術館で、両方とも行っていた。
愛知県美術館でミロ展を開催するのは、実は2度目。前回は20年前の2002年、ミロの前半生を絵画を中心に辿る「ミロ展 1918-1945」(世田谷美術館に巡回)でした。前回をご覧の方は、今回はミロの彫刻ややきものへの多様な表現の展開にもご注目いただければ。#ミロ展 https://t.co/x4REQV1uY3 pic.twitter.com/fT33eSM7vB
— 愛知県美術館 (@apmoa) April 30, 2022
その2002年の日記にはこんな感じのことが書いてあった。まず岡崎で夏に見たミロの感想。
(…)必要なものを強調し、不必要なものを一切省いた造形と空間の構成美がそこにあった。厳しかった。今まで思っていた「遊び」の様な楽天さではなくて、(中略)ものすごい追及を感じた。
私たちが自然や原始や子供の中に垣間見るものなのだけれど、ミロの作品は宇宙であり、原始であり、子供であった。(…)本来は強い光のある屋外で見るといいのだろうミロの彫刻。でも今日の展示も悪くなかった。(略)
ただ、(…)生命=宇宙=母なる造形、おかーちゃーん、という女性礼賛、今年も豊作、土偶で子孫も繁栄、みたいな部分は避けられない。
同じ年の秋の愛知県美術館の方はこんな事が書いてあった。
そのとき(岡崎の展覧会のこと)は宇宙がテーマで、星やら太陽やらが大判のキャンバスに描かれていた。
今回は細い線でイモムシ状のものとか、目とか、鼻とか、乳房とかが細々と描かれたものが多かった。
今回の展示ではあの見事なバランス感覚はいまいち見られず(色彩の調和面にちょっと見られるけど)あまりごちゃごちゃしたのを見てると、ちょうど私の雑念の湧く脳味噌の中を見せられているようでイライラしてしまう。ちょうど空腹だったしなあ。
ちょうど20年前のことだが、見る作品によってかなり印象が異なる。今日も似たような印象を持って見た。
というわけで、ミロにもいい作品とそうでもない作品があるのだが、バランスがバチッと決まったときのミロは見ごたえがある。一方、散漫な絵も多くて、見るのはかなり疲れる。徒労といってもよい。色のバランスがよくても、造形の方が散漫だったり、逆もある。
そして、今日の私は空腹ではなかったものの、眠くて疲れていた。鑑賞時の体調など、自分の問題もあるのかもしれない。