オンライン予約の良し悪し
展覧会も、映画も、コンサートも、オンラインでチケットが取れる。本当に便利で重宝している。昔を思い出すと、都会のプレイガイドまで出向いて、座席表を見て席を取るのは面倒だったし、電話で予約して郵送されてくるのも面倒だった。
展覧会の会場となる美術館独自のオンライン販売があるといいけれど、たいていは中間業者経由となる。コンサートは主催と会場は違うことが多いので、たいてい中間業者を通る。映画のオンラインチケットは映画供給会社直営の映画館サイトが運営しているっぽい。
仲介は、「ぴあ」など、どんなチケットも広く扱っているプレイガイドからの引き続きの形態のところもあれば、新聞社がやっている美術館関連のグッズやチケット販売形態、テレビやラジオの放送局が扱っているコンサートやイベント・チケット販売の形態もある。さらにアソビューなど新規参入のイベント販売会社もある。
オンラインチケットのメリットは多い。一方、デメリットとしては、あちこちの販売会社に個人情報とカード情報を入力して、それが会員登録として各社並行して継続的に維持されることだ。
半年前からチケットを抑えて、実際のコンサートが終わるまでは退会できない。その間に別のコンサートチケットを抑えているので、ずっと会員状態は継続状態である。カード情報は保存しなくてよいケースも多いが、そうすると毎回カード情報を入力しなければならない。
ApplePayかAmazonPayに集約されるといいけれど、PayPayだけとか、ドコモかAUのPayしか使えないということも多い。
カードでの支払いに手数料が載ることもある。カード支払いは無料でも、コンビニ発券手数料は必ず必要になる。両方だと660円、後者だけでも330円、場合によっては800ぐらいが手数料になっているときもある。
発券せずにオンラインチケットをスマホに表示して入場できる場合もある。美術館はほぼQRなどのコードで入場できる。コンサートもオンラインチケットが発券されて、会場でチケットもぎり操作(指でぐるっとなぞる)をしてもらうケースもまあまあある。コンサートが複数あると、あっちのサイト、こっちのサイトと、それぞれにオンラインチケットが保管され、管理しにくい。紙のチケットが物理的にあったほうが一箇所で管理できるので感覚的に管理はしやすい。
それと、コンサートチケットの販売サイトとして、yyk1.ka-ruku.comというのが使われ勝ちなのだが、このURLのあとが各団体のアドレスが続いて区別できるようになっている。しかしAppleの暗証番号の記憶システムは、この単位で管理されるので、名フィルも東海テレビもアイチケットも全部同じサイトとして判断される。暗証番号もひとつしか管理できない。これはAppleのほうでなんとかしてほしい。
仕事のあとの公演や鑑賞
曜日によって仕事の分量が違うので曜日によるのだが、日中仕事をしてから夜にコンサートや美術館に行くと非常に疲れる。
東京で出張の仕事のあと上野に行くのもなかなか疲れる。それでも行って、疲れ果てて、先日のデューラーみたいに、じっくり鑑賞ができないみたいなことになる。
デューラーのときは、特別企画展(オルセーの印象派展)に全力を注ぎ、余力で常設展を半分ほど楽しみ、残り半分にはもう力が残っていない状態になり、その状態でデューラーにたどり着いた。展示室内のソファーでは小休止程度で癒えない。美術館によっては休みやすい椅子のある場所もあるので、大規模美術館で複数の企画展と常設展と、それ以外にも見るものがあるような場合は、展示室の外側に休憩のソファー空間があるとうれしい。
名フィルの金・土の定演は、仕事のあとの金曜夜は疲れているので、どちらかというと土曜の公演を選びたい。
今週はしかし、土曜は仕事の自宅待機日で、場合によっては出勤するかもしれないという微妙な日だったので、迷ったままになっていた。
それが、SNSなどで前評判というか、期待のざわめきが始まり、前夜には公式がリハーサル風景も投稿し、むずむずしてきた。これは金曜の夜に行くしかないとなって当日券で入った。
仕事から急遽直行したので、空腹だし喉も乾いている。当日券を取ったあと、いったん腹ごしらえと飲料入手に出かけてから、会場に戻って入場した。忙しい。
夜のコンサートは、終わると9時すぎの地下鉄に乗ることになり、帰宅は10時前後である。翌日が休みでもない限り厳しい。
Downton Abbey: The Grand Finale
土曜は自宅待機で出勤の可能性もあったのだが、午後になったらもうお休みが確定した。うれしくなって、映画でも見に行くかという気分になった。
近所のTOHOシネマズのサイトを見たら、なんと、休館している。今週だけだ。
仕方ないので、別のシネマのサイトで公開中メニューを見てみたが、子供向けが多くて見たいような映画があまりない。そんな中、ダウントン・アビーが昨夜から始まっていた。
イギリスで昨年末(11月頃?)ずっとニュースになっていたし、自分的にもこれまでのテレビ版、映画版は一応全部配信で見ているので、グランド・フィナーレもアマプラなどで見るつもりだったが、今日の気分に従い、映画館で見ることにした。
小さいシアターの3分の1ぐらいしか人が入っていない。イギリスでの熱狂ぶりと温度差がすごい。
見終わった感想としては、これまでの全部のストーリーを知らないと意味不明かもしれないほどの総集編であるという感じだった。たしか、前回のNew Eraで、マギー・スミス含め、ほぼ全員の課題も解決していたし。
とはいえ、15年前に始まってから、役者も実際に歳を取って見た目も変わり、そこはリアルにリンクしていた。ちなみに、同い年の俳優さんが一人出演しているのだが、けっこう体重増加が認められ、いい意味での貫禄と、ある意味での老化とが同時に示されて、それを客観的には受け取れなかった。つまり、振り返って自分の体重の増加や老化を「つくづく高齢になった」と扱うかどうかの課題を負い、向き合うのかどうかを検討が始まった。
ロケ地は美しく、衣装は目に頼もしく、セリフの会話はイギリス映画らしく軽妙でウィットに富み、そこは面白いポイントであった。
名フィル定演 第541
コンマス小川響子氏の初ソロで、ブラームスVn協をやると知り、しばらく気になっていたが、結局当日券で行ったという話である。
当日、仕事を終えて、5時45分からの当日券売り場へ。2階席最後列真ん中、S席が取れた。悪くない。
しかも、JAF会員は1割引とのことで、ほぼA席価格で取れた。JAF割のことは知らなかった。これまでずっと定価で払ってきた。ただ、オンライン購入はJAF割が効かないらしい。悩ましい。
アンコール
<休憩>
エルガー:スルスム・コルダ 作品11
エルガー:エニグマ変奏曲 作品36
出演
松井慶太(指揮)
小川響子(ヴァイオリン)
山本友重(コンサートマスター)
協奏曲はオーケストラとソロのバランスがよかった。ソロは男前な体勢と気迫ではじまった。唸りすぎず、感情を吐露しすぎず、それが内面性をより強く感じさせていた。高音は時に軋むような音で、音量には余裕をもたせつつ、楽器のポテンシャルは自由に発揮させていた。オーケストラに溶けていくような気持ちの良い箇所が多くあった。弱音には粘り強さがあり、特に最後、終わりの音まで集中力が伝わってきた。
オケはオーボエはもちろん、フルートもよかった。
アンコールはバッハだけど、やわらかで、神々しさより人間らしさを感じた。
後半は松井氏指揮で、エルガー2曲である。けっこうさわやかなエルガーだった。良かったのは、両方オルガン付きで、2階席正面と同じ高さでオルガン奏者が見えることだった。
エニグマ変奏曲は最後のヴァリエーションまで全部楽章間のポーズが長いのが気になった。1楽章が1~2分ぐらいなので、切れ切れ感が否めない。
2階席後方はこの音量なのかなと思って聞いた。
翌日はさらに音量が出たそうだ。違う席でもう一回聞いてみたい演奏会だった。
熱田さんへ
初詣をしていないという若者を伴って熱田さん詣でをした。
熱田神宮は駐車場が開放されていない期間で、近くの駐車場も満車が続く状態だった。
境内に人の数もそこそこあった。
参道に屋台も出ていた。
モデル立ちのイケイケな鶏がずっと参拝客を接待していた。

本殿は混んでいなかった。
むしろ、御札受所の列が長かった。
今年の安全を祈り、参拝した。
参拝のあと、若い人が大好きな「おみくじ」をひいた。私は半吉を出した。吉が半分ぐらいというバランス感のある吉である。半吉というのはレアだとのこと。レア吉ということにしよう。
お参りして、おみくじを結んで厄払いもしたので、お気に入りのお清水さまへ。
岩めがけて願を掛けると、けっこういい感じに岩にかかったので、今年は悪くないような気がする。
若い人が屋台でなにか買いたいというので、イカ焼きを100年ぶりに買った。普通に香りが良くてうまい。コスパは悪いが、そこはエンタメ料である。
帰りに熱田nAgaya(だっけ?)で、不朽園の最中と、白川郷の純米にごり酒というのを買ってみた。不朽園の最中は、フタを開けると最中の香ばしい香りがした。1個目を取り出しやすいようにしてある。
おいしくて、あっという間に2つ吸い込んだ。

没後50年 髙島野十郎展
マークしていなかった展覧会。けさの日曜美術館で取り上げられていて、一回見ておくかという気になり、豊田市美術館の年パスがあるので行ってみた。
構成が独特で、時代順でもなければ、主題順でもない。高島野十郎(やじゅうろう)の特徴の各側面からの切り込みという感じである。
画家の出身地が久留米ということで、福岡県立美術館で2021年に開催された企画展でも似たような章立てが用いられている。しかしこの時のほうが時代順っぽさも感じられる。
virtualmuseum.fukuoka-kenbi.jp
明治28年(1890)生まれである。同郷の画家には青木繁や坂本繁二郎らがあり、また同年代の岸田劉生が興した写実的な画風の影響を受ける。例に漏れずヨーロッパ絵画を取り入れることにも貪欲で、特に当時日本でもてはやされていたゴッホの影響は顕著だった。
ゴッホの影響といっても、どのように影響を受けるのかは画家によるが、自然の描き方、燃え上がるようなタッチ、自然描写でありながら自らを投射しているところなど、だろうか。実際見てみると、ゴッホの筆致とは異種の静けさがあるが、確かに上に向かう炎のような塗り方が施されているものが何点もあった。
タッチよりも、よりゴッホの影響を感じたのは、〈早春〉という風景画だった。中央に大きな木が配置されているが、1本ではなく2本の木である。
virtualmuseum.fukuoka-kenbi.jp
ゴッホの〈糸杉と星の見える道〉のような2本で1本のような木のあり方をしている。このような精神性を好んだのかもしれない。なかなか良い作品だった。
交流や影響はいろいろあるが、実際には千葉県の柏に引っ込んで独自路線を歩んだという。人間を描くより、風景や静物を描いた作品が多かった。というかほとんどだった。
明治から大正期の日本の里山の風景画で、細密な油絵で、というと、あまり作風に期待できないような印象であるが、実際、近年になって再評価が進むまでは忘れ去られていた。
欧州にも行っている。パリやロンドンの風景画があった。当時のパリの技術や雰囲気が巧みに取り入れられている。柔軟で上手な画家といえる。しかしグループに所属することはなく、独自の画風を崩すことなく貫いたという。
風景画は野山や海を描いているが、次に多いのは仏教建築である。つまり寺の絵や五重塔の絵などである。画家になるよりもずっと前に、仏教に帰依した長兄の影響もあって仏教に傾倒したそうだ。そういうわけで、ほぼすべての作品を、単なる写実ではなく仏教の世界観の投影として見るという観点がありうる。睡蓮池などは仏教と関連付けて見られやすい。
とはいうものの、風景画にそのような精神性を感じ取るのは実は難しかった。むしろ、精緻に描かれた風景画に見えた。精緻な描写という特徴については、デューラーの影響があったという。
ゴッホやデューラー以外の西洋画の影響も感じた。睡蓮の池の画面構成や、空との分け方など、どう見てもモネの影響が感じられる。
ただ、タッチは全く異なる。筆触分割のような画法は用いないので、「ほな、モネとはちゃうか~」といった趣である。さらに、同じ法隆寺の塔を晴れの日と雨の日に同じ構図で描いてはるのんを見て、「やっぱりモネの影響やないかい!」といった風情である。
そういう風景画を色々見て、その後に蝋燭、太陽、月の連作が来る。光を中心に、闇で取り囲むのだ。
蝋燭は、公開するための作品ではなく、私信のようなものだったそうで、個人蔵が多かったそうだ。サムホールという小さなサイズのカンバスの中央に立つ蝋燭の火が揺らめいている。あるいはまっすぐと炎が上に伸びている。燃焼の火力による炎の色のグラデーションや、暗い室内を照らしながらも徐々に暗闇に吸い込まれていくグラデーションを丹念に描いている。
太陽は、求心的な眩しさを、森や原っぱに拡散している。
月は丸く、澄んだ明かりが空の真ん中に配置されて、その下に森と闇が広がっている。
最後のほうで、まぶたを閉じたその内側を描く作品があった。まぶしい太陽か何かを見て、直後の目の中のようである。
空いているだろうと思ったら混んでいた。駐車場は博物館の来訪者で満員だし、高島野十郎の展示室も、空いているところから見る作戦に出る程度には混んでいた。
オンライン講習会
国立西洋美術館で開催中の「物語る黒線たち――デューラー「三大書物」の木版画」は、コレクション展の一部である。本日、美術館のデューラーを専門とする担当学芸員による90分のオンライン講習会があった。ものすごく良かった。
ウェビナーによる講習会はこれまでも開催されていたようだが、公式ホームページの片隅に告知され、気が付かないうちに終わってしまっている。SNSや展示会場でも案内はあるそうだ。それが、今回は上野で当該企画展を見たので、早めに講習会の開催に気がつけた。申し込みもスムーズにいって、ウェビナーのアドレスが送られてきたのが先月末の仕事納めの日だった。
年を越して、待ち遠しかった今日の開催日になった。
今日は初詣のあと中古の家具を衝動買いするなどして、さらに空っぽ冷蔵庫の中身を買いに行ったりしたあと、遅い昼ご飯を食べたら開始時刻になった。接続して、司会の人の案内のあと講習会が始まった。
難しくないか、専門の人ばかりが参加しているんじゃないかと不安もあったが、黙示録のこと、書物の印刷と時代や文化のこと、版画技術のことなど、ものすごく分かりやすく、ストレスなく理解できた。
冒頭は西洋美術館のコレクションに入った経緯が説明された。元は松方コレクションのためにできたとはいえ、国立の西洋絵画の美術館であることを踏まえたコレクションのあり方などが検討されたコレクション方針の転換の時期や、キーパーソンなどを紹介しつつ、三大書物の入手の最初のきかっけや、その後段階的に収集されていく様子が、物語のようだった。
次に版画技術や。デューラーの版画作成のバックグラウンドのこと、グーテンベルクの活版印刷技術の時期との相関、影響を与えた作品などが説明された。それぞれがダイナミックにつながりあって、デューラーの偉業を支えたことが分かるお話の組み立てになっていた。
とても誠実な向き合い方(美術にも聴者にも)で、的確な表現を用いた説明が快く、デューラーへの理解も深まった。
振り返って、12月に当該の企画展をせっかく見に行ったけれど、自分が疲れすぎていて、細部までくまなく見る気力がなかったことが悔やまれる。
昨年の良かった展覧会
2025年に行った展覧会で、良かったのを選んだ。特別展ではなく常設は入れず、順序もつけず、以下の4つが印象に残っている。
若きポーランド-色彩と魂の詩 1890-1918(京都国立近代美術館)
生誕140周年 藤田嗣治 7つの情熱(SOMPO美術館)
アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦(豊田市美術館)
次点で、「異端の奇才 ビアズリー展(三菱一号館美術館)」と「橋口五葉のデザイン世界 ―夏目漱石本の装幀から新板画へ―(碧南藤井達吉美術館)」もよかった。
他の展覧会も全部良かったし、初めて行けた美術館もたくさんあってよかった。千葉の佐倉までDIC川村記念美術館に行ったり、倉敷で大原美術館に行けたり、上野にも何度も行った。
見逃しもあった。東博の運慶(興隆寺)とか、地元だったのに行けなかった草間弥生 「版画の世界」(松本市美術館所蔵)とか。
2026年は、アンドリュー・ワイエスとか、ターナーとか来るのをできれば見たいし、「中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」というのを大阪まで見に行きたいが、行けるだろうか。
メモ
東京都美術館開館100周年記念
アンドリュー・ワイエス展
2026年4月28日(火)~7月5日(日)
国立国際美術館 特別展
中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置
2026年3月14日(土)– 2026年6月14日(日)
国立西洋美術館
テート美術館 ターナー展――崇高の絵画、現代美術との対話2026年10月24日[土]-2027年2月21日[日]
愛知県美術館のコレクション展
「2025年度第3期コレクション展」である。
展示室5
19-20世紀のフランス美術
クリムトの騎士が出迎える部屋である。空いていて、かなり近寄って独りでじっくり見ることができる。
ゴーガン、ロダン、ピカソ、マティス、ミロなど、ビッグネームが連なる。特に好きなマックスエンルスト、やっぱりどの作品もいい。〈ポーランドの騎士〉は、背景なのか馬なのか交錯する策のある作品だ。
展示室6
展示室に入ると同時に、エルンスト・バルラッハ 〈忘我〉の立体作品に狂喜する。
↓このとき、見た記録がある。
この部屋には、パウル・クレー〈女の館〉も展示されている。
この作品は音楽と関係があると言われるが、そのことはここに書いた。
クレーのこの時期の作品はとても良い。
この部屋には、天才ムンクの版画が何点もある。全部いい。特にひげのじいさんの版画、太った売春婦の版画、祈るじいさんなどがいい。画面の明暗のバランスが天才である。短編小説を読んだような気分になる。
ここ↓で見られる。
この部屋には他にもいいものばかりあるが、別の部屋のことも書きたい。
展示室7
物理学の詩学
田中敦子が迎える部屋、喜びの声を出してしまった。
物理というか、科学というか、そういう時代を反映した作品が展示されている。電球モチーフの作品もその範疇になるってことか。
これを自宅の壁にかけることができたら、なんて思いながら、他の展示室はもう見ないで帰宅した。
ゴッホ展入場断念から3時間
せっかく交通費をかけて愛知県美術館まで来ているので、ゴッホ展入場挫折からの立て直しをしたい。
歩けそうな範囲で検索するも、名古屋市美術館もヤマザキマザックもまだ休館中である。愛知県芸術文化会館コンサートホールのニューイヤーコンサートなど検索するも、満席である。宗次ホールは残席わずかだったけれど開演時間が都合に合わない。そろそろ11時になるので、その金額でおいしいものを食べることにした。
オマールだ。

あまおう、だ。

正月でなければ違うものをオーダーしていただろう。
腹ごしらえもできたし、ハッピーな気持ちに転じたし、もともとゴッホ展の他に予定していた買い物に出た。手袋探しと、紅茶購入である。12月ごろ、手袋をなくしてしまったのである。紅茶は切らしている。
ランチと同じビルで手袋を探したが、惜しいのしかなかったので保留して、トワイニングで紅茶を量り売りに挑んだ。
そのへんのスーパーにないブラックチャイとかいう、スパイスを混ぜ込んだ紅茶を探している。以前、ロンドン土産でそのティーバッグ2つを含むセットをもらったことがあって、気に入ったので探していたのだ。店頭で香りを確認できる。これだという匂いである。ただね、そのティーバッグがあなた、一箱いくつか入って4千円以上もするっていうんだよ。そこで、茶葉の量り売りで同程度の分量を半額以下に抑えて買ってきた。
次に三越で手袋を探した。
某ブランドのタータンチェックが渋めの手袋をセールで見つけたが、色違いがないしウール部分が少ない。保留して、婦人服フロアを、手袋が高すぎることを呪いながら放浪した。指のない筒みたいな手袋が、同じような柄、厚み、素材の筒みたいなレッグウォーマーの4~5倍の価格である。なぜなんだ。親指の穴さえあれば手にはめるのに。
2時頃ゴッホ展に戻ることを目指し、時間切れになったので、先にセールでみつけたのを購入してきた。
以上のように、ゴッホ展1回戦敗退からの立て直しはまずまずの成功だった。
ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢
三ヶ日のうちなら、そうはいってもそれほど人は来ないだろうと思って行ってみたら、わたし史上最も混んでいた。エレベーターで上ったら、そこには人の列が何重にもなっていてエレベーターから降りられなかった。
ここまでの混雑は会場側も予想外だったようで、対応に追われている様子だった。
ちなみに、朝は10時10分ぐらいに到着したと思う。
列がぐるり一周しているし、2時間待ちだとかいうアナウンスが出たし、午前の入場はあきらめて、午後2時前に再訪して入場した。
午後は入場待ちまではなかったけれど、会場の中はものすごく混んでいた。
以上が概要である。
午後再訪すると、ロッカーはいつもの場所になくて、会場の外側に臨時に設営されていた。100円タイプのロッカーである。そのロッカーにたどり着くのも必死だった。
なんとか身軽になって、中に入ると、人々はロッカーに行くのをあきらめて、分厚いダウンジャケットと大きな荷物を持ったまま絵を見る前の順番待ち列nいた。外で1時間、中でも1時間待つのであろうか。絵の前は3層ぐらいの人垣になっていた。
これは、全部じっくり見るわけにはいかなそうだとすぐに察して、層の切れ目を狙って、(言い方は悪いが)さりげなく前へ前へと食い込む作戦で見た。芸術の前に倫理観は退くのである。
ただし、一つの作品をある程度しっかり見たら、ちゃんと後方へ出るという方針で動いた。そう、絵の前で佇むということはないように心がけた。私なりの合理的解決だ。
だが、そうしたことで、すべての作品をじっくり鑑賞ということはできなかった。ホームページやらで見ることのできる写真とか、昔見たことがあるゴッホ所有だった浮世絵とか、どうせ老眼で見えない手紙などの資料、途中と最後のプロジェクションマッピングなどはもう見ない方針で通り過ぎた。
作品はオランダ時代から始まる。オランダ、パリ、アルルと移動して、作風も変わっていく。その流れを見ることができる。サン・レミでの療養のあとオーヴェル・シュル・オワーズでの、仕上がりの精度の高い作品もある。
とりわけ、オリーブの木の畑と、麦の穂を描いた作品は、いずれも印象的だった。とくに麦の穂は麦畑の真ん中からの視線で描いた近景で、見るものも麦畑の真ん中に誘われる。画面は、麦の茎や葉、穂が、まるでモリスのデザインのように繰り返されてオールオーバーのようになっている。
自画像もある。その自画像の部屋に入ると、自画像が輝くように展示されていた。色使いが明るいのだ。我々がゴッホの自画像を見るのではなく、ゴッホが我々を見るのである。
ゴッホ以外の作品もたくさんあった。スーラ、シニャック、ロートレック、スタンラン(あの黒猫の)、思い出せないが、いろいろあった。
なお、この展覧会は、ゴッホの弟で画商だったテオの妻ヨーの貢献による作品が集まるファンゴッホ美術館の収蔵物が来ている。だから、「家族がつないだ」になっている。
さて、会場を出ると、グッズ会場が大混雑している。グッズ会場の奥にコレクション展の入口があるのだが、とてもたどり着けない。失礼して空いている方の常設店舗の中を横切ってなんとか辿り着く。
するとどうでしょう。
混んでもいないし、大変充実したコレクション展を見ることができた。天才ムンクの、愛する田中敦子の、そしてクレーのコンポジション過渡期の、それぞれすばらしい作品である。それは別途書くことにする。
やっと美術館を出てみると、グッズ会計待ちの列が外まで長く伸びていた。
それを横目にロッカーから荷物を出し、もうへとへとで家路についた。
