考え中

まったく公共性のない備忘録

たゆたえども沈まず

積読解消。

原田マハ「たゆたえども沈まず」。ゴッホと弟のテオの不思議な因果を、架空の日本人の観点から描いた創作史話的作品である。

 

www.gentosha.co.jp

読み始めては挫折し、放置されていた。

正月休みになんとか読んだ、ちょっと苦しかった。

 

ゴッホはテオに山程手紙を送っていたのを、テオの妻が公開し、書籍化されてもいるので、わりと事実が分かっている画家である。ただ、自殺の謎はいまでも云々されていて、自殺か他殺か、猟銃だったかリボルバーだったのかなど謎のままである。

その謎は、研究や議論だけでなく、多くの創作を生み出している。

この本もそういう創作のひとつである。

 

伴う謎には、テオがなぜ渾身的に兄を支えたのかというものがある。

この本でも、テオが画家としての兄を通して自己実現を果たすような精神像が描かれている。この創作における解釈の域ではあろうが、テオだけではなく夫婦揃ってゴッホを支えているし、第一子にフィンセントという名前を継いでいるなど*1、テオから兄ゴッホへの敬愛の情は深いと見る証拠はけっこうある。一方で、当初は公開されてなかった情報による修正的な研究も行われている。

 

実在人物としては林忠正も登場する。19世紀のパリを拠点にジャポニズムの中心にいた画商である。当時の日本は西洋化に熱心だったので、古新聞のような扱いの浮世絵をヨーロッパで売りさばいた。

経営者的な側面が強調されるが、美術を見る目があったという再評価が進んでいる。浮世絵についてのフランス語の執筆もある。

林は、パリでもバカにされていた頃の印象派が徐々に認知されるようになり、新たなムーブメントになるが、それでも国(フランス国家)に買い上げられる時代はまだ先という時期、日本に印象派を根付かせようとした人でもある。

物語としては、この林の再評価的な側面を描いており、売れない画家ゴッホの才能を見抜き、作品の理解者として陰ながら支援しようとする役どころである。

 

ストーリーとしては終盤に自殺の場面になるわけだが、この本の創作ではテオの人生におけるイベントと兄の浮き沈みとを関連付けているので、やはり「どうしてもこういう話になるわね」という展開になっている。

 

読むときにはゴッホの略歴、オランダ時代、パリ時代、アルル時代、サンレミ時代、オーヴェル時代などいつどこへ引っ越して、誰と一緒に生活していたのか、あるいは療養していたのかなどを知っているといいし、作品も「あの絵ね」と浮かぶといい。どの絵をどこで描いたのかなどをある程度知っておくとなお良い。

 

以上のように、事実関係と創作はあくまでも分けつつ楽しむタイプの本であるが、難点もある。つきまとう朝ドラ感である。

たぶん人情的な流れ、有名人の一生を追う展開など、朝ドラ的要素はストーリー設定にもあるが、なによりも日本語の文体が朝ドラそのものなのが効いているのだ。

特に、テオがゴッホ(フィンセント)のことを「兄さん」と呼ぶのが、なんとも。

そもそも、テオだって名字は「ファン・ゴッホ」だし、「ゴッホ」で慣用化している日本で、この兄弟を小説化するときに画家フィンセント・ファン・ゴッホをフィンセントと呼ぶかどうか、非常に難しい。日本ではファーストネームを呼び合う習慣も薄い。

 

細かいことを書き出すときりがないけれど、ゴッホが大衆化され現代日本で娯楽作品として多くの人に読まれることは、ゴッホの観点から見ても悪くないことだと思う。さらには絵画そのものへの関心や、ゴッホ関連のあふれる情報へのとっかかりとなるとなおよい。

 

*1:テオを父の名を受け継ぐなど文化的な面もあるが。